HAUS | Hokkaido Artists Union studies

インタビューその3
演出家・鈴木喜三夫さん

札幌で初の専門劇団をつくる
戦後北海道と歩んだ演出家

Text : 渡辺たけし(HAUS)
Photograph : 長尾さや香
Place : 演劇集団「座・れら」事務所(札幌市)
2022.11.27

HAUSアーティストインタビューは、札幌で活動するアーティストを、たくさんの人に知ってもらいたいという思いからスタートしました。第1期は2022年夏から2023年春に取材したさまざまな分野のアーティストを順次掲載します。

インタビューその1その2は、兼業アーティストを取り上げてきたのですが、今回は1950年代から専業で活動されている札幌演劇界のレジェンドアーティストを紹介したいと思います。

「・・・専門にお芝居をやるってことがどういうことか、札幌の人には理解してもらえなかったようです。よく「劇団」ではなく「楽団」に間違われていました(笑)・・・」

札幌でアーティストとして食べていくことの大変さは、今も昔も変わらないようです。さて、まずは劇団設立時の苦労からお聞きしました。

札幌で初めての専門劇団を旗揚げ

ーお生まれは何年ですか。

1931年ですから昭和6年です。91歳です。

ー90代の方に取材させていただくのは初めてです。よろしくお願いします。

2017年で演出は、高齢のため辞めていたんですけれど、去年(2021年)90歳で久しぶりに劇団「座・れら」の演出に引っ張り出されました。昨年の『アンネの日記』を、「れら」の団員が初めて演出するということになり、私が演出を薦めたもんですから、どうしても応援しないとなんなくなりました。それで共同演出というかたちで関わりました。

※座・れら=2009年春、演劇制作体「鈴木喜三夫+芝居の仲間」の常連4名で発足した劇団。座長は鈴木喜三夫さん。
※『アンネの日記』=ナチスに迫害を受けたユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランク作『アンネの日記』を、ハケット夫妻が戯曲化したもの。

ー今まで何本くらいの作品を作られたんですか?

中学生から演劇を始めたので、れらで最後に演出した2017年『アンネの日記』まで数えると133本のお芝居(脚本含む)をつくりました。昨年の番外編の『アンネの日記』共同演出で134本になりました。

ーまずは、劇団「さっぽろ」の話を聞かせてください。1959年の結成当時から職業的な専門劇団を目指していたとお聞きしました。

※劇団「さっぽろ」=北海道を基点に学校公演や一般公演と数々の上演を行っている専門劇団。

最初から「専門劇団」ということを銘打っていました。だから、稽古は全部昼間です(笑)。

1957年NHK東京で脚本の仕事をしていた頃の鈴木さん

ー1959年というと、まだ札幌の文化的は黎明期だったと思うのですが、その時代から専門劇団を目指したのはどういう理由だったんでしょう?

私は戦争が終わってすぐ、演劇がしたくて東京の大学に行き、舞台美術の仕事をしたり、当時始まったばかりのTVドラマの台本を書いていました。しかし、東京の生活もなかなか大変で札幌に戻ってきました。当時、札幌には児童劇団「こりす」というところがあり、そこで何度か演出を頼まれました。その児童劇団の何人かと専門劇団を旗揚げをしました。

※児童劇団「こりす」=1957年に札幌で旗揚げされた児童劇団。「札幌子供の友会」でお芝居を学んだ人々により結成された。

1958年 劇団こりす『うぬぼれ兎』

ー札幌で旗揚げしようと考えた一番の理由はなんだったんですか?

まだその頃は、北海道に専門劇団がなかったんです。戦後すぐに、専門劇団を目指して旗揚げしたところはあったんですが、長続きしないで潰れちゃっていたんです。その時、僕は28歳でした。30歳前にしてこれから人生を何に賭けようかって考えていた時期だったんです。北海道で最初に専門劇団を作ろうというのが、劇団「さっぽろ」の発足のきっかけです。

ー結成を最初に言い出したのは鈴木さんですか?

そうです。発足当時、劇団「さっぽろ」に集まってきた人たちは、実家暮らしで仕事しなくてもいい奴か、仕事をやめてきた奴らでした。

「『3ヶ月で潰れるだろう』ってみんなが言ってたことが、
まさしくそんな風になっちゃったんです。」

ー最初の劇団員は何人くらいだったんですか?

15か16人くらいかな。その他に協力してくれた人はいろいろいましたから、実際に活動を始めたときは20人ぐらいです。

ー結成された1959年当時、札幌に劇場はあったんですか?

その頃、札幌市民会館と札幌商工会議所ホールなど2つか3つの劇場ありました。公民館もあったけれど、それは劇場といえるものではありませんでした。

ー機材や道具などはどうしていましたか?

劇団員みんなで、全部手づくりで作りました。1960年、劇団「さっぽろ」がやっと一人前になるきっかけになる公演が『アンネの日記』なんです。その時は中島児童会館で活動していました。そこに100人入るくらいのあんまり広くない舞台ホールがあったんです。そのときの館長が理解してくれて、劇団「さっぽろ」に使わせてくれていたんですよ。

ー1960年当時、専門劇団で食べていくっていこうということを、札幌の人たちはどう思ってたんでしょうね。

「3ヶ月で潰れるだろう」と言われてました(笑)。専門にお芝居をやるってことがどういうことか、札幌の人には理解してもらえなかったようです。よく「劇団」ではなく「楽団」に間違われていました(笑)

ー旗揚げした劇団員たちも「これ一本で食べていけるんだ」っていう確信はあったんですか?

ないです。劇団「さっぽろ」旗揚げ当時、北海道に児童向けの劇を上演する旅回り専門の劇団「どら」というところがあったんです。自分たちに専門劇団の経験ないから、力を借りたいと思って、その劇団「どら」の2人を劇団「さっぽろ」に招き入れたんです。ところが、それは成功しなかった。半年もしないうちに、うちの若い連中を何人か連れて抜けていった。

ー旗揚げ早々の大ピンチですね。

「3ヶ月で潰れるだろう」ってみんなが言ってたことが、まさしくそんな風になっちゃったんです。劇団「どら」が出て行ってしまった後すぐに、北海タイムスという新聞に「北海道には専門劇団は育たない」という記事を書かれたりして、私達は悔しかったです。ならば、「自分たちが何としても専門劇団を作ってみせる!」っていうのが、劇団「さっぽろ」を続けた一番根源になったんですよね。

ー劇団「さっぽろ」は、早くから給料制を取り入れたと聞きました。

株式会社にしていました。何とか芝居で生活したいっていうことがあったんで、そのためには給料制が一番よかったかなと思っています。

学校巡回公演を取り入れ
給料制劇団へ

ー劇団「さっぽろ」の給料制は、最初からうまく行っていたんでしょうか?

旗揚げしてから3年くらいは、劇団の収入が1ヶ月1万ぐらいでした。みんなに割り振るするような金額ではないです。『アンネの日記』を上演したとき、初めて一人に1000円ずつ配って、皆で大喜びしたことがありました(笑)。

1960年 劇団さっぽろ『アンネの日記』初演

ーそこから少しずつ収入が増えていたんですね。

最初は、劇団の普及活動(営業活動)する人たちと、事務所に勤める一部の人たちに手当を払いました。あとはみんなアルバイトで生活していました。昼に稽古ですから、働かないとならない連中は、夜に新聞配達やバーなどいろんなとこでアルバイトしていました。その後は、手当を払える人を段々と増やしました。

ー劇団員皆に給料を払えるようになったのは、いつくらいでしたか?

宮の沢の稽古場ができたのが、劇団「さっぽろ」設立から20周年のちょっと前ですから、その頃だと思いますね。当時で月10万ぐらいの給料を払いました。そうすると夫婦でやってる人は月20万ですからね。何とかギリギリやっていけました。

ー劇団「さっぽろ」の最初の目標は、給料制の導入と稽古場の設立だったとお聞きしました。

目標を「劇団が所有する稽古場をもつこと」に置いたんです。宮の沢に現在もある稽古場を1976年に作りました。でも、今考えると、「稽古場」ではなく「劇場」を目標にするべきだったと思っています。だから、その辺はちょっと反省をしてる。

「一番多いときで
年間400ステージぐらい上演しました。」

ーその後、旅回りの学校公演が増えたとお聞きします。

「自分たちはこんなに朝から晩まで頑張っているのに、芝居だけではなんで生活できないんだろう?」っていう疑問がありました。旅回りの学校公演を積極的に行うことにした理由の一つは、「食えるようにする」ということでした。しかし、旅回りをするかどうか、劇団内でずいぶん議論しました。

ー旅回り学校公演に反対の団員もいたんですか?

「旅回りをすると演技や芝居が荒れる。だから、旅回りをすべきじゃない」っていう意見と「北海道の劇団なんだから、北海道中を回るべきだ」という意見に分かれました。芸術至上主義的な考え方だと前者なんですが、だけど、新劇的な運動的な立場でいくと後者なんですよ。ずいぶん論議しましたけど、最終的には旅回り学校公演(巡演劇場)をしようということになりました。

※新劇=明治時代以降、歌舞伎や新派に対して、ヨーロッパ翻訳劇を中心として上演した新しい演劇のムーブメント。戦後は、自分達の思想を演劇の形で表現し社会運動とも結びついた。

ー劇団の経営を安定させるために学校公演が多くなったんですね。

もちろん、一般の人たち向けの公演もやりましたよ。ですが、主体は小中高の学校の子どもたちに見せるお芝居をすることが、劇団「さっぽろ」の中心になり、ある程度成功したと言えるでしょう。一番多いときで年間400ステージぐらい上演しました。

ーどのようなシステムで劇団は運営されていたんですか?

一番多いときには3班体制。1班目は5人くらいの団員で幼稚園などをまわり、2班目は10人くらいの大型班で小中学校をまわりました。他のメンバーは高校や一般向けの公演っていうことで3班体制です。だから、劇団員が当時30~40人近くいました。最初の頃は、旅館はお金がかかるので劇団員は、体育館にマットを出したり宿直室など、学校に泊めてもらう。昔はそういうことは緩やかだったんです。

ーいろんな学校に行くと、劇団「さっぽろ」の色紙が残っていますよね。僕の世代(40〜50代)には懐かしい風景です。

今でも時々「子ども時代に劇団「さっぽろ」のお芝居を観た」という人に出逢いますよ。

古巣の劇団を離れ
フリー演出家としての道へ

ーその後、鈴木さんは劇団札幌を退団して、フリーの演出家になるという選択をされました。それはどういう考えからだったんでしょうか。

一番大きいかった理由は、3班体制で学校巡回公演をすると、どうしても年間で「これだけのお金が要る」ということになります。

ーお金を稼ぐことが目的になるということですね。

舞台の創造的な質なども考えているんですけれど、作品の選び方なども「お金を稼げること」に集中しちゃいますね。それは仕方がないことだと思うんだけども、やっぱり創造集団の一番の要はいい作品を作るっていうことなんですよ。そこのところの意見が、劇団「さっぽろ」と僕とで合わなくなってしまいました。劇団「さっぽろ」を離れたのは、そういう理由が大きいかな。「自分のやりたい作品をやろう」というのが、フリーとして独立した大きなきっかけでした。それからもう一つは、北海道の演劇史を書きたいってことでした。

ー経済的なことを考えながら劇団を経営していくことは、とても難しい問題ですね。

難しいです。しかし、劇団を維持してくために、とても必要なことなんだけど。

ー劇団「さっぽろ」設立の時代からすでに50年以上経ってるんですけど、僕らが抱えてる問題はあまり変わっていません。札幌で芸術で食べていくことは難しいです。社会的もあまり変わってないですね。

日本の場合は演劇に対して厳しいですね。音楽などは、どちらかというと上手くやっているように見えます。オーケストラなどは国や自治体から支援を受けているところが多いです。お芝居が一番支援を受けてないっていうふうに思います。

ーそうかもしれませんね。

外国でも、国からの支援をもらってやってるってことろが多いですよね。芸術そのものの需要と供給がバランスを維持できるような状況ではありません。そのことの理解が、非常に日本は弱いですね。

ー国や自治体からの支援の状況も、50年経っても変わらないですか?

変わらないですね。札幌は一時期よりちょっと後退してますね。過去、「座・れら」が稽古場を維持するための補助として、予算をもらっことがありました。そういうことも今あんまりないようですね。

ー今回HAUSは、札幌市の札幌市文化芸術創造活動支援事業の助成をうけて活動していますが、来年も続くという保障はありません。根本的な問題を解決するために、これからどうなってったらいいとお考えですか?

北海道では、お芝居の演技を教えて月謝を取る「教室」のようなものは少ないですよね。ところが、踊りや音楽は必ずそういうシステムありますよね。バレエなどでも、月謝を払って教えてもらい、それを発表するということが一つの流れになってますよね。演劇はそれが少ないんですよね。

ー趣味でピアノを習いに行くということはあるけれど、「演劇を習いに行ってます」という人は少ないですね。

だから、地方自治体なんかも、演劇などの養成所を作ってくれるといいんだけど。最近は逆に、自治体が関わるイベントが減っていく方向ですよね。

ー北海道で初めての専門劇団を作りったり、学校巡回劇を始めたりと鈴木さんは新しいことにどんどん挑戦されましたが、北海道でフリーの演出家の仕事はすぐに軌道にのったんでしょうか?

劇団「さっぽろ」を設立したときのことに比べると、全然すぐにうまくいきました(笑)。

ーなるほど(笑)

「鈴木喜三夫+芝居の仲間」を経て
アマチュア劇団「座・れら」へ

劇団「さっぽろ」で全道を回ってましたので、いろんな人たちと交流がありました。人形劇や音楽劇を創る方達とのつながりもできていました。劇団「さっぽろ」時代のいろんな実績が繋ながった成果でした。そういう意味では、自分がやりたいことが自由にできるという解放感は大きかった気がします。また、フリーで仕事を受けながら、それとは別に演劇を制作する集まりとして「鈴木喜三夫+芝居の仲間」というプロデュースシステムのグループを作ったんです。自分で作りたい作品も作るという両車輪を持ったんです。これがうまくいったんだと思います。

ー「鈴木喜三夫+芝居の仲間」というプロデュース集団は、10年ほど続けられたとお聞きしました。

「鈴木喜三夫+芝居の仲間」は、僕が制作と演出をしていたので大変でした。経済的な負担は、僕が全部個人で背負わないといけなかった。本当は制作体制を確立したかったんですけど、残念ながらそれはちょっとできなかったんですよね。それで結局「鈴木喜三夫+芝居の仲間」は15回公演で解散して、「この先はアマチュア劇団でやるしかないだろう」と考えました。アマチュア劇団を作るにあたっては、どこかの劇団に所属する人たちを引っ張るわけにいきませんから、フリーの人たち4人を中心に、現在の劇団「座・れら」を作ったんです。

ー鈴木さんは、すでにいろいろなことをやり尽くしてる感じですが、これからやってみたいことなどはあるんですか?

あります。「アンネ・フランク」に関わる作品を、さらにもっと創りたいという思いはあります。

ー北海道の演劇の歴史と鈴木さんの歴史が重なっていて、刺激をいただいたお話しがたくさんありました。また、ぜひ、お話しの続きをを聞かせてください。

はい、よろしくお願いします。いつでも呼び出してください。喫茶店になら、いつでも行きますよ。

子どもの頃から、劇団さっぽろのお芝居を観てきたぼくとしては、胸がキュンとするようなお話が聞けて濃厚な時間でした。取材後は、鈴木さんオススメの蕎麦屋にも伺いました。

「兼業アーティスト」「専業アーティスト」それぞれに創作にまつわる苦労や変遷があるものだなと感じました。札幌でサバイバルしてきた鈴木さんの言葉一つ一つに重さを感じましたよ。

「兼業」の人中心にお話を聞いてみようかなと思いスタートしたHAUSアーティストインタビューなのですが、「専業」で活動してきた(している)芸術家のお話も興味深いなと感じました。

そんなことを考えていたら、最近、京都で活躍する振付家が札幌に移り住んだと聞きました。京都と北海道の2都市で創作するのって、どのような感じなのか。興味が湧いてしまいました。

次回のインタビューはこの方です。

インタビューその4
振付家 きたまりさん

(アップされるまで、もう少しお待ちください)

今回インタビューされた人 鈴木喜三夫
1931年、札幌市生まれ。1953年東京の玉川学園大学教育学部入学。1956年同大学中退。イタリアオペラの裏方やNHKテレビライターとして活躍。1959年28歳で専門劇団さっぽろ創設。代表・演劇研究所長を歴任。1986年劇団さっぽろを退団、フリー演出家となる。劇団時代から演劇教育に携わり、北星幼稚園教諭保母養成所、教育大旭川・同釧路校などで表現の授業を担当。2004年に『北海道演劇 1945‐2000』を刊行

今回インタビューした人 渡辺たけし
1971年小樽生まれ。公立中学校数学教員。劇作家、演出家。いろいろな地域の人々を取材し演劇作品などにしている。HAUSでは、アーティストの労働条件や人権について担当。