HAUS | Hokkaido Artists Union studies

インタビューその2
美術家 森本めぐみさん

生活とfloatする美術家
子育てで変遷する制作スタイル

Text : 渡辺たけし(HAUS)
Photograph : 長尾さや香
Place:Seesaw Books(札幌市)
2022.10.2

HAUSアーティストインタビューは、札幌で活動するアーティストを、たくさんの人に知ってもらいたいという思いからスタートしました。第1期は2022年夏から2023年春に取材したさまざまな分野のアーティストを順次掲載します。

「・・・子どもと暮らし始めると、今度は、どうしても子育てを中心とした環境にこもりがちになってしまいます。アートのコミュニティや子育てコミュニティとか、いろいろな場所を行き来できると、もっといいのになあと思います・・・」

第2回目は「育児」と「芸術」を兼業している人に取材したいと思っていました。数人の方に「育児中アーティストで気になる人を教えてください」と尋ねたところ、「森本めぐみさん」の名前が何度か出てきました。早速インタビューをお願いしました。

ぼくは初対面でしたから、ちょっと緊張しながらの取材だったのですが、森本さんは一つ一つの言葉を大切にしながらお話をしてくれた印象です。

まずは、森本さんの人生一大転機のお話からお聞きしました。

札幌から福井県鯖江市へ
変化を求めて移住

ー今日は自由にしゃべってください。出身はどちらですか?

出身は恵庭市です。

ー何年生まれですか?

1987年生まれです。今、34歳です。

ーお住まいは札幌市南区ですね。

そうです。子ども2人と夫、夫の両親、犬と猫で夫の実家に住んでいます。

ーお子さんはおいくつですか?

2歳と6歳です。

ー来年から小学校ですね。お迎えなど大変ですね?

そうですね。でも、私が自宅や保育園から少し遠い場所でフルタイムの会社員をやっていて、帰りが遅くなるので、基本的に夫が子どもたちのお迎えに行ってくれています。その後、夫が創作現場に行く感じです。

ー森本さんの配偶者もアーティストですか?

夫は「キトカイ」という名前で木工をやっています。今、札幌芸術の森工芸館で展示会をやっています(2022.10.2現在)。道内の工芸作家のグループ展をしています。

※札幌芸術の森工芸館=工芸にまつわる展覧会が開催される札幌市の展示ホール

ーこのアーティストインタビューでは、今までどのように生活や作品づくりをしてきたかなどのお話ししていただいています。

はい。中学校の時の美術の先生のすすめで札幌市立高等専門学校(現・札幌市立大学)というデザイン系の高専に進学しました。その時から、恵庭の家から札幌に通い続ける生活が始まりました。2011年に卒業した後、3年間ぐらいは札幌の会社に就職して働いていました。

ー学校を卒業した後は、アーティストを専門の職業にしていこうと考えていたんですか?

あわよくばという気持ちはありました(笑)。それで大学を卒業してすぐは、コールセンターで働いたんです。コールセンター勤務だと持ち帰り仕事がないし、勤務時間がはっきり決まってましたから、仕事の後の時間は美術作品の制作などをしていました。札幌市内だけじゃなく、自分で企画して東京で展示したりといろいろやったんです。でも、それで生計が成り立つ見込みもなかったし、美術館に呼ばれて展示することもありませんでした。「このままこんな感じの生活を続けてくのかな?」と悩んだりもしました。周りにいる美術の仕事を専業してる人の話を聞いても、美術は面白いけど、美術で生計を立てるのは当たり前ながら面白くないこともいろいろあるんだなぁ、と思ったりもして・・・

ーその後、福井県に移住したそうですね。きっかけは?

札幌で作品作りをしていても、周りの環境があまり変わらなかったことが理由の一つにあります。美術の作品をつくるには、技術に関することだけではなく、いろいろ経験することが必要じゃないかなと思うようになり、それで、ぽっと、福井県に何も考えないで行っちゃったんです。2013年から2018年までの間です。

ーなぜ、福井県を選んだんですか?

当時から付き合っていた夫が、福井県鯖江市で木工をやっていたからです。鯖江市には漆器の産地があり、夫はそこで住み込みの仕事をしてたんです。それで、時々遊びに行き、面白そうな町だなぁと思っていました。北海道から電車に乗って福井へ行き、帰りに美術館をみたり、ホタルなんか見せられたりして「あ、いいところだな」と(笑)。うちの父方の先祖が富山県にいたみたいなんです。自分でも気になっていて、昔にその辺を電車で回ってみたことはあって、北陸にはなんとなく縁を感じていました。

ー福井に移住してみて、生活はどんな風に変わりましたか?

移住して何週間かは消極的に求職活動をしながら家の修繕などしていたのですが、近所の人が「お弁当屋さんが仕事探してるよ」とか色々声をかけてくるようになったので「とりあえず仕事しなきゃいけないのかな」と思って、メガネ修理専門の会社に入社しました。鯖江市はメガネの町なので、メガネに関する仕事が細分化されていたんです。メガネ修理もしていましたが、私はちょっとパソコンが使えたので、事務仕事とかエクセルでお店のチラシ作ったりとか、そういうことをしていました。

ー福井に住んでいる間も作品づくりはしていたんですか?

福井では、全然作っていなかったですね。途中まで作っていたものや、自分の作品じゃなく関わっていた団体や町のイベントのために作っていたものは、いっぱいあったんですけれど。福井に住んでいる時は、メガネ屋で働いてお給料を稼ぐことと、「まちづくり」の活動で手一杯みたいな感じになっていました。それはそれで、楽しかったんですけど。そうしている間に5年ぐらい経っちゃったんです。

ーお子さんも生まれて、子育てが始まったら、いよいよ作品の制作が難しくなったんじゃないですか?

でも、子どもが生まれてから、ようやく「なんか作り始めなきゃ」と思うようになりました。子どもが生まれる前までは、自分の都合で使える時間が無限にあったんですけれどね。子どもが小さい時にしか作れないものがあるんじゃないかと考えるようになりました。子どもができてから、急に時間が方向性を持って動き始めたような気がします。それまでは、方向性のない時間がずっと続いていました。そんな生活の中に、いきなり成長し続ける子どもが入ってくると「このタイミングで何かしなくちゃいけない」という気持ちになりました。1人目の子どもが生まれた2016年に、またちょっと絵を描き始めました。お正月で札幌に里帰りしたタイミングで作品の展示をしました。

ーどんな内容の展示ですか。

札幌では、小さい絵を展示しました。自分の部屋にあるベットの横に小さいちゃぶ台を置いて、子ども寝た後に描いていました。

ーその小さな絵の写真データなどを拝見することはできますか?

それが・・・最近、ハードディスクを子どもにぶん投げられて、消失してしまいました(笑)。

ーあらら(笑)。

「諦めろ」ってことかなと一瞬思ったりしました(笑)。今住んでいる家でもそうですが、子どもが生まれてからは、「自分専用の制作場所」と呼べる場所を持ったり、そこに行くのも難しく、福井でも子供と一緒に寝る部屋で作品制作をやっていました。気を抜いて、データを保存したハードディスクを見える場所に置いておいたら、二段ベットの上から「えいっ」て投げられちゃいました。

ー僕も、むかし子どもたちにいろいろやられました。

子どもは、ああいうことって楽しいんでしょうね。

ーその後、福井でのどのように生活していたんですか?

柿を収穫したり、バーベキューをしたりして、近所の人と猪を捕まえて、解体したりしました(笑)。

ー猪の解体!?

普通に田舎を楽しんでました。地元の人とも仲良くなりました。でも経済的にも時間的にも余裕がなく、かなり疲弊してもいました。子が生まれて、北海道の親に子どもの顔を見せにいくのもお金がかかります。そんな時に、福井にどかっと雪が降ったんですよね。30年に一度くらいの大雪でした。地元の人たちは子どもの時にこんなのが一回あっただけと言っていました。

ー雪は大きなポイントだったんですね。

屋根まで積もる雪が降りました。古い家に住んでたんですが、屋根の軒がポキッと折れちゃったんですよね。「修理しないでここに長く住み続けるのは無理だなぁ」って話になりました。腹くくって修理して住み続けるか、北海道に帰るか、どっちかみたいな二択を迫られたんです。結果的に、もうダメだってなって。2018年に、仕事を見つけて北海道に帰ってきました。恵庭市に戻りました。

北海道にUターン
子育てしながら再び作品制作

北海道に戻ってきた2018年から現在まで、札幌市のグラフィック・デザインの会社で昼間は働くようになりました。もうすぐ5年ぐらいになります。それから、北海道に帰って恵庭に住んで1ヶ月後に、いきなり北海道胆振東部地震がきたんです。

※北海道胆振東部地震=2018年9月6日に北海道胆振地方中東部を震央として発生した地震。地震の規模はMj6.7。地震の影響で道内全域約295万戸でブラックアウト(停電)が発生した。

ー地震の時はどうしていました?

私の方は電車で会社に通っていたので、休んでいたんです。でも、夫は当時、内装仕事をしていて、地震の2日後ぐらいから「納期もあるから行かなくちゃいけない」って言って、会社に行ってしまいました。私1人と子どもだけで家にいました。

ーやっと電気が復旧した時期ですね。

そうです。その地震の後、木工の仕事で独立したかったという話も出て、夫は会社をやめました。「今住んでいる家に家賃払うの無理だね」って話になって、南区の夫の実家に引っ越すことになり、私は夫の実家から仕事に通うようになりました。

ー福井から北海道に戻ってすぐ地震で引越し。さらに人生の分岐点がきた感じですね。

たまたまそんな感じになりました(笑)。子どもの保育所もずっと待機で、ようやく入れた矢先だったんですが、また、引っ越すことになりました。

ー作品の話を聞かせてください。福井の家の庭の柿の木の写真を使った「2013年、庭の柿の木」(2018年)という作品を拝見しました。

札幌に戻った2018年に制作しました。

(「2013年、庭の柿の木」 撮影:山口誠治)

ー制作の経緯を教えてください。

北海道胆振東部地震の直後に「Nameless landscape」というグループ展にお誘いいただいて、その展示の一部として制作しました。写真の上に蓄光糸で刺繍のドローイングがしてあります。部屋全体が数分おきに明点と暗転を繰り返していて、それぞれで違うイメージが見えるようになっています。雪害と地震で相次いで引っ越しする中で、何か自分の制作環境や作品に対する意識が変わったように思ったのですが、どう変わったのかわからなかったので、あの作品を作った感じです。

ー作ったあとに「なぜ作りたかったのか?」気がついたりするんですか?

作っても、よくわからなかったんですよね(笑)。

ー(笑)

なにかあると思ったんです。福井の家の柿の木が気になっていたんでしょうね。毎年食べきれないぐらい柿がなるんです。枝がしなってしまうくらい。前に住んでた人が植えていたんです。そうすると、柿がいっぱいあるから、山から猿が降りてくるんですよ。

ーさるかに合戦!?

そうですね(笑)。北海道には柿がないので、最初は福井のその景色に異国情緒を感じました。曇ってる空に真っ赤な柿の実がなっている風景が、すごく印象に残っていました。福井を後にする時、その柿の木もそのまま置いてきちゃったので、ずーっと気になっていたんでしょうね。北海道に戻った途端に地震がきて、古いアパートだったので、壁がワシワシと割れちゃって、それが柿の木の枝みたいに見えたんです。福井の柿の木の写真の上に、北海道のアパートの壁のひび割れを、蓄光素材の糸で刺繍しています。

ーこの作品に蓄光素材を使ったのはなぜですか?

子どもが寝てから、布団の中でできるものということで蓄光素材を選びました。それから、最初に福井の家を借りたとき、前に住んでいた人が残していった電灯のスイッチ紐の先に蓄光の星がぷらーんとぶら下がってたんです。

ー蓄光のスイッチコード、子どもの頃よく見かけました。

(福井の家に実際あったスイッチコード 本人撮影)

私たちが住み始める前の誰もいない間も、昼はここで光を溜め、夜は光り続けていたんだなと考え、誰もいない場所で、そういう風に光っている蓄光の星が、いろんな場所にあるんだろうなって思いました。今の家にも、子ども用に蓄光の星を壁に貼っていますけれど。

ーアイデアは、子育てなどの生活から出てくることが多いんですか?

仕事や子育てをしながらできる作品を作っています。「ゴルディロックスを待ちながら」(2019)という作品の土台は、布に糸と針で刺繍したものなんですが、終わったら畳んですぐにしまうことができます。素材の布は、引越で着ている服を処分しなければいけなくなって、それを切ったり、縫ったりして作りました。ユニクロのシャツなどです(笑)。子どもと生活することで、良くも悪くも思ってなかったところに連れて行かれることはありますね。

(「ゴルディロックスを待ちながら」 撮影:山口誠治)

ー北海道に戻ったその後は、どんな作品を作っていますか?

恵庭に住んでいた時は、かろうじて自分の部屋があったんですが、今の家に引っ越してからは作品制作ができる自分の部屋もないので、庭でできるような作品を作ろうと思いました。

ー庭で作れる作品というのはどういうものですか?

はい。土偶などの作品を作り始めました。

ー土偶?!

はい。意外と大変でしたけど(笑)。

ーたしかに、庭で焼けますね(笑)。

計画していないタイミングで自分の住居を移すことが続いたので、どこに自分の作品を保存しようかと困りました。捨てられない。だんだん自分の作品を持って移動するのが、しんどくなってきちゃいました。引越しのたびに、作品の保管をどうしようと悩みました。持ち運ばなくていいので「短歌」を作ってみたりとか、場所を取らない作品づくりを探していました(笑)。

ー作品の形態が変遷してきたのは、お子さんがいることや、引越しなどの環境の変化が関わっているということですね。

そうですね。まさか、自分が土偶を焼くようになるとは思いませんでした。土偶だったら保存に困ったら、土に埋めればいいよなと(笑)。

生活スタイルにあった作品作り
土偶づくりにハマる

ーその後、どんな展示に関わりましたか?

その後は「塔を下から組む~北海道百年記念塔に関するドローイング展」(2018年)という展示に関わりました。

ー​​どんな内容の展示ですか?

新札幌の「北海道百年記念塔」の解体方針が固まってきた頃に、佐藤拓実くんというアーティストが解体されるにしてもそこに塔があった事実はきちんと残すべきだという思いで始めたプロジェクトです。必ずしも佐藤くんのその方針に同調するメンバーだけではないのですが、そのテーマに関連してドローイングを作ってくれそうなアーティストに声がかかり、私もその一人として声がかかりました。

※佐藤拓実=北海道を中心に全国で活動する美術家。近年は北海道の歴史に取材した平面作品を制作、展開している。

(「北海道一万年記念塔」 撮影:メタ佐藤)

ー百年記念塔ではなく、一万年記念塔なんですね。

オリジナルの「北海道百年記念塔」は開基百年で100mの高さの塔なんですけれど、開基一万年で10000mの高さの「北海道一万年記念塔」という架空の塔が完成して、それを100031歳の私が家族と見に行く、というストーリーでドローイングを描きました。ちなみに、この時暫定的に考えた「北海道一万年記念塔」は「北海道百年記念塔」が100個縦につながった形をしています。

ー何人のアーティストが参加したんですか?

最初は8人だったと思います。今日持ってきたこれは「一万年記念塔」の土印です。2回目の展示「北海道百年記念塔展 井口健と『塔を下から組む』」(2020年)を小樽文学館でやった時に、博物館風の展示ケースの中に「押したらこうなります」というので、土偶に使ったのと同じ江別の粘土に押した印影も並べて展示しました。そして、この押されたものを焼くと、さらに土偶になります。

ー終わらない感じですね。

そうです(笑)。埋めたものを将来的に誰かが見つけて「なんだろう?」と興味を持ってくれるかもしれません。誰かが一万年後に見るわけです。現在は、プラスチックを食べる微生物なんかが見つかっています。風化に強い素材はなんだろうと考えた結果、土偶になりました。

ーアーカイブで見せてもらったいくつか作品には「物がなくなっていく」とか「終わりがある」という意味の一貫性があるような気がしました。

一貫性があるといってもらえて良かったです。自分ではそんな気はないんだけど、「森本はいつも全然違うことばっかりやってる」って言われることが多いんです。私は、いつも、「ギリギリ残っているもの」を作品にしてきたような気がします。「いつか終わりがある」という前提に影響されて作品作りをしていると思います。

ーこれから、やってみたいことはありますか?

近々、駄菓子屋さんをやってみたいと思っています。夫が使っているアトリエの庭を占拠して、最初はテントでやろうかなと思っています。名前も決めてあるんです。「ふろうと商会」か「ふろうと企画」にしようと思っています。

ー「ふろーと」=float(浮く)ですね。ちょっと、浮いてる感じ?

はい、(floatの意味は)なじみきらないというか・・・(笑)。テント営業とか屋台みたいな、移動しやすくて、あまりお金がかからない方法でやろうかなと思っています。昔から、そういう人が集まれる中間的な場所を作りたいなと頭の片隅で思っていました。

ー実は僕の実家が、子どもの頃、駄菓子屋をやっていたんです。

(しばし、駄菓子屋談義で盛り上がる)

それから、もう少し土偶を焼きたいです。作ってばら撒かないと、あまり意味がないかなと思いますから。自分で持っていると保管しなければならない状態から逃げられないし。誰かにどんどんあげたり、埋めたりしていこうかなと思っています。このおたまじゃくしも、もらってもらえないかな。いらなければ、畑の隅などに埋めてもらいたいです。

ー僕、何匹かもらっていきます。

コロナ禍が落ち着いたら、みんなで土偶を焼いて埋めるという企画もやりたいです。この土偶の上にアクリル絵具のような朽ちるスピードが違う素材を塗ってみるのも面白いかなって思っています。ギリギリ残ってるものをみんなで見るみたいな感覚に、土偶はすごく合致してる気がします。家族でバーベキューしながら、焼き台で土偶を焼くこともできますもんね。

ーそれも楽しそうですね。生活と作品を作るってことが結びつくんですね。

結びつかないことって無理だと思うんですよね。

ーHAUSでは、専業アーティストだけではなく、兼業アーティストの皆さんの話も取り上げていこうと思っています。そういう意味で、子育てをしながら作品を作っている森本さんの話は興味深く聞くことができました。

アーティストに限らず、家庭と学校だけみたいな、限られたコミュニティーで子どもを育てているとしんどいじゃないですか。だからみんなで集まるコミュニティみたいなものがあってもいいのかなと思います。

ーアートが発端のコミュニティが作られてもいいのかもしれませんね。

昔は、アートをやっている人だけの集まりから、一旦距離を取りたいと思ったこともあったんです。「同質性の人たちの中ばかりにいちゃだめじゃないか」と思って離れたんです。その反面、アーティストの友達と話したり、誰かが制作している気配に触れたり、誰かの展示を見に行ったりすると、ちょっとホッとする自分がいました。

ーはい。

子どもと暮らし始めると、今度は、どうしても子育てを中心とした環境にこもりがちになってしまいます。子育てのコミュニティーは自分にとっては新しい出会いだったんですけど。アートのコミュニティや子育てコミュニティとか、いろいろな場所を行き来できると、もっといいのになあと思います。

ーいろんな集まりに出入りできるということは、子育てなどをしている人たちの利点かもしれませんね。

そうですね。個人的には、アートだけをやってる生活よりは良かったなと思っています。来年の夏で結婚して10年目くらいなので、これを節目に駄菓子屋も実現させたいと思っています。

ー今日は、楽しい話をありがとうございました。

森本さんのちょっと不思議な雰囲気が楽しくて、余計なお話まで尋ねてしまった今回のインタビューでした。

子育ては楽しいことばかりではないわけで、他の人には伝えられない悩みを抱えることもありますよね。アートがあることで、自分自身が支えられるってことも、とてもたくさんあると思います。

ところで。

インタビューその1、その2と「兼業アーティスト」にお話しを聞いてきました。じつは、HAUSの中でも「北海道の芸術家を知ってもらうなら、兼業とか専業とかにこだわらなくてもいいんじゃない?」という意見もありました。「たしかにとそうかも」と思い直し、次回はド直球で専業アーティストの方からお話が聞いてみたくなりました。

ということで、次回はこの方です。

インタビューその3
専業演出家 鈴木喜三夫さん

今回インタビューされた人 森本めぐみ
1987年 恵庭市生まれ。美術家。寓話世界のイメージを絵画やパッチワークなどで表現する作品を制作。「塔を下から組む~北海道百年記念塔に関するドローイング展」(ギャラリー門馬 2018年)、「Nameless Landscape」(札幌文化交流センター 2019年)、北海道百年記念塔展 井口健と『塔を下から組む』」(小樽文学館 2020年)などに参加。

今回インタビューした人 渡辺たけし
1971年小樽生まれ。公立中学校数学教員。劇作家、演出家。いろいろな地域の人々を取材し演劇作品などにしている。HAUSでは、アーティストの労働条件や人権について担当。