HAUS | Hokkaido Artists Union studies

インタビューその4
振付家きたまりさん

「働く」ことの仁義について
北海道・京都2拠点で創作する振付家

Text : 渡辺たけし、奥村圭二郎(HAUS)
Photograph : 長尾さや香
Place : きたまりさんのお宅(札幌市)
2022.12.18

HAUSアーティストインタビューは、札幌で活動するアーティストを、たくさんの人に知ってもらいたいという思いからスタートしました。第1期は2022年夏から2023年春に取材したさまざまな分野のアーティストを順次掲載します。

2022年に、突然京都から北海道に移住して来たきたまりさん。日本のみならず、世界中を制作の場として活躍するきたまりさんが、京都と北海道の2ヶ所を活動場所に選んだ理由などお聞きしてみました。

それから、いくつかの拠点で活動する時の意外なメリット、デメリットも教えて頂きました。そのほか、きたまりさんの興味深い「労働感」についてもお話しいただきました。

北海道を移住先に選んだ本当の理由?

(2022年にきたまりさんは京都から札幌に引っ越してきました。お話しは「北海道で暮らすには車は必需品ですかね?」「北海道では馬を見たいです!」などの雑談からスタート。そして本題に入りました。)

ーHAUSでは、アートと労働を考えるるというインタビューをさせていただいています。ぼく自身もインタビューは素人なので、気軽な気持ちで答えてくださいね。

わかりました。インタビューにまとめるのって大変ですよね?

ーそうですね。苦労しています(笑)。

わかります。

ー生まれはどちらですか?

生まれは岡山なんですけれど、育ちは大阪なんです。

ー何年生まれですか?

1983年生まれで1982年生まれが同期です。宇多田ヒカルと一緒です(笑)。

ー天才や鬼才が多い世代ですね(笑)。

ー京都で長い間創作を続け、2022年から北海道に移住されました。京都と北海道2拠点で活動をされていますが、北海道を選んだ理由はなんだったんですか?

元々、母方が北海道なんです。

ー北海道のどこですか?

黒松内町なんです。

※黒松内町=北海道後志(しりべし)管内南端にある町。ブナ北限の地として知られている。畜産が盛んで牛肉、チーズが格別。一度食べに来てほしい。

ー今も親戚はいるんですか?

います。母方の親戚はみんな北海道の人なんで、ちっちゃい頃から話を聞いてたし、遊びに行ったこともあるし。

ー縁や憧れみたいなものがあったんですね。

そうですね。でも、やっぱり、コロナの影響が大きかったっていうのもあります。コロナ前に最後にレジデンスで行ったところが中国雲南省でした、本当に何て言うの・・・「草」!

ー「草」ですか。

草原が印象的でした。標高2400mに町があって、綺麗で、すぐ停電になる。何もなくて広いところでした・・・。そんな雲南滞在の後に、広いところで暮らしてみたい気持ちがじわじわでてきてて。長く暮らしていた京都って、やっぱりすごく狭いんです。

ー確かに京都は小ぢんまりしている印象ですね。

コロナの自粛期間、京都以外の場所に出かけることが減って、ただただ広いところに行くことで何かがリセットされてる気になるから、そんな欲求がつのって。

ー自然が好きなんですか?

自然が好きなんだと思います。人が多いのは駄目なんですよ。タッパがちっちゃいっていうのもあるんですけど。それから、京都って、でっかい建物がないですよね。やっぱり、常に見晴らしがいい方が圧迫感がないので、その方が生きやすいっていうのがあって。

ー新しいところに来たら高いところに登るのがいいと『ゴールデンカムイ』にも書いていましたね。身を守るという意味でも。

※『ゴールデンカムイ』=野田サトルの漫画。明治末期の北海道・樺太を舞台にしたアクション漫画。アイヌの娘アシリパと日露戦争からの帰還兵「不死身の杉本」がバディとなり冒険の旅を続ける物語。

高いところに登ると町の地形がわかるんですよね。わたしも新しい場所に行った時は、とりあえずその町にある山に登るか、高いところに上がってみますね。本題の「なぜ北海道を選んだか?」という話は少し長くなりますが、いいですか?

ーぜひ、お聞きしたいです。

コロナになって最初の頃は、やることがないから京都市内を散歩ばっかりしていたんです。その時に、ものすごく理想的な墓を見つけたのね。

ー墓?

ロケーションが良くて、「ここ入りたい!」っていう憧れの墓みたいなのを見つけたんです。奥にある木の感じが良くて、霊山がほどよい場所にあって・・・という感じの理想的な墓場だったんです。家に帰って早速調べて資料請求したら、墓石代なしで300万!

ー高い!

京都市内の墓は高いんだな・・・ってなって。石代とか供養費など合わせると500万ぐらいかかるっていうことがわかって。そのときに「今、私は、500万を私が死んだ後のために一生懸命工面しようとしてる?」って思ったんです。それで500万あれば出来そうなことを、墓以外にちょっと考えるようになりました。

ーはい。

例えば500万円あれば田舎で中古物件を買えるなとか。

ーそうですね。

死んだ後のこと、生きてる間のこと、いろいろ何か考えてた矢先に、母親が亡くなったということもあって、それで、実際、墓のことを考えなきゃいけないっていうこともあったし、気持ちが落ち込んでどうしようもなかったので、気分転換に1回引っ越してみようと考えました。最初、憧れの地ということで、北海道の他に長崎や佐渡島も候補地に考えたんだけど。2021年に、ちょうど「RE/PLAY Dance Edit:札幌」という企画で札幌に来る機会があったんです。10何年ぶりに札幌に来たら「水が合うな」と。

「RE/PLAY Dance Edit:札幌」(2021年) photo by yixtape

※「RE/PLAY Dance Edit:札幌」=オリジナルは、多田淳之介率いる東京デスロックが2011年に発表した『再/生』。2012年にきたまりがプログラムディレクターを務めた「WeDance京都2012」で俳優を振付家・ダンサーに置き換えて、リ・クリエーションしたダンスバージョンが初演され、その後は国内外で4カ国7都市で上演。札幌でのクリエイションは2021年にコンカリーニョで行われた。(2023年現在)

ー北海道が肌に合ったんですかね?

ですね。山も見えるし、札幌の天気の変わり方って、街なのに山みたいでいいなぁと思ったり。「北海道に住むのはいいんじゃないかな」と思ったんです。

ー山が見えないと駄目な人、海が見えないと駄目な人、両方いますよね。

私は、山が見えないと駄目なんですよ。

2拠点で創作することのメリット・デメリット

ーアーティスト専業で稼ごうと考えると、北海道在住の場合「東京や大阪に行かなきゃいけない」っていうふうに考える人が、今までは多かった気がします。でも、最近は複数に拠点を置いて活動している人も増えてきています。

そうですね。でも、私は拠点が1箇所であることにこだわるのは好きだったんです。墓を買おうと思ったくらいでしたから(笑)。

ーなるほど(笑)

ただ、思考が狭くなる危うさもあると思う。あとは、その地域の人たちの関係性が全部わかっちゃうのも良くないなって思う。

ー「あそこのあの人は、ああいうことを考えてるな」など透けて見えちゃう?

なんか、わかった気になっちゃう感じがして。

ーなるほど

ずっと同じ場所にいると、なんだか不自由になっていく感じがして、そろそろ違う場所がいいなとも思っていました。

ーこれから複数の拠点で活動する人も増えていくんじゃないでしょうか。その気になれば、本州には簡単に行けるわけですしね。2拠点になることによって、やりづらいこともありますか?

引っ越してきてまだ半年だから、わからないことは多いんですけど。ただ、いつも一緒に創作してるスタッフはみんな関西にいます。長い付き合いだから、安心してオンラインで打ち合わせをしていますが、伝わってるだろう思ったら、意図があまり伝わってなかったことなどはありますね。やっぱり、舞台の打ち合わせは全部オンラインだと、フォローできない部分はあるなと思いました。でも、結構、京都にちょくちょく帰ってるんで、今のところ2拠点だから特別困ることはないです。

ーオンラインで打ち合わせできるっていうのは、2拠点での活動を後押ししていますよね。

オンラインがあることでだいぶ変わりましたね。それから、札幌で生活するようになって、やらなければいけないことがあるのに外出しても、京都のように街中で関係者にばったり会うっていうことがなくなりました。創作中に外出することへの後ろめたさがなくなりましたね(一同爆笑)。今は、創作途中でも、堂々と外に遊びに行くことができるようになりました。

ー気分転換に堂々と遊びに行けるマインドもあったほうが健全ですよね。

京都では、人に会いすぎるっていうのが負担だったのかもしれない。

ー長く活動しているとそうなりますよね。

1箇所に長くいることで、いいこともあるんだけど、全てが筒抜けすぎて。京都は小さいですから。そして、今後も知り合いはさらに増えていくわけで。

ー年齢とともに。

ちょっと不安になるわけですよ。

ーわかります。2拠点で活動することで、そういう不安が減るということですかね。

そうですね。なんだか健全になりますね。知り合いが周りに多いと、いろんな情報も入ってくるから、周りの意見に流される部分もあるじゃないですか。立地的に距離を置くことで、自分で考える時間がちゃんと持てるようになるかもしれませんね。そういう時間を欲していたんだと思います。

専業で働くこと、兼業で働くこと

ーHAUSでは、今まで兼業、専業両方のアーティストにインタビューをして来ました。きたまりさんは、現在は専業アーティストとしてお仕事をされていますよね。

専業といえば専業ですね。昔はアーティスト以外のいろんなバイトもしていました。

ーどんなふうに活動をして来たのか教えてください。

30代のときは公演で赤字が出て、「もう大変っ!」ていう状態もあったけど、逆に20代のころは金銭的には結構恵まれてたと思います。

ーなぜ、20代の頃は恵まれていたんですか?

幸せな時代だったんですよあのときは(笑)。ダンスのショーケースがすごく多かったんです。大学在学中からショーケースに出ていたので、リスクを背負わず作品を上演できる機会があって、結構、恵まれてたんですよね。それでも、バイトはしてたかな。朝食とかやってたかな。

ー朝食?

京都はホテルが多いですからね。主にホテルの朝食の配膳のバイトをやってましたね。朝バイトに行って、その後稽古してました。朝のバイトだと、稽古時間を削られることはないんですよね。稽古終わりに飲み屋でバイトしてる時期もありましたけど。でも、歳をとってからは、朝も夜も働くのは駄目になったという感じですね(笑)。一時期はいろいろやりましたね。いろいろあった、いろいろあった。でも、それは言い難い。

ーそういうのは言わなくていいです(笑)

美術モデルもしてましたね。でも、稽古時間をちゃんと確保できるバイトしかやったことないです。

ー生活のためのアルバイトをしなくて良くなった時期はいつからですか?

ここ5~6年かな。現場1回あたりの単価が、いつのまにか上がったというのもありますね。経験とか年齢的なものでしょうね。若いときは、ちっちゃい企画っていうか・・・どういったらいいかな。

ー単価が安い企画ですか?

そうですね。若い頃は、ギャラも安い代わりに拘束時間も短い企画が多かったのですが、今は劇場などからの依頼が増えました。そうすると、逆に現場の回数は減りましたが、単価が上がりました。いつのまにかですけれど。それから、自主公演でも予算管理をしてくれる制作者をちゃんと付けるようになりました。劇場から依頼を受けた時も、私と劇場の間に制作者をマネージメント的な役割として挟むようになったら、不自由ない創作の予算の交渉をしてくれるようになったというのが大きいかもしれないですね。

ー北海道や札幌で、創作活動にマネージメントが関わることは少ない印象です。長く札幌で芸術活動に従事されている方でも、企画がスタート時に自分のギャラがわからないという人が多いです。

それは、私もわからないことが多いですね。

ーそういうものなんですかね。

なかなか直接言えないですよね。自分も雇用される側になることもあるし、雇用する側になることもありますもん。

ーどちらの立場もわかりますもんね。

金額を言えないっていうことは「そういう状況なんだな」っていうふうに察しちゃいます。相手がどういう劇場、団体、個人か、どれぐらいの助成金を取ってるか、どれぐらいの予算規模かで、ギャラの金額は大体予測できるようになりました。

ーHAUSでは、契約書やワークルールなどの勉強会もしていきたいと思っています。参考に聞きたいんですが、きたまりさんは、今まで、契約についてはどうして来ましたか?カンパニーとダンサーっていう場合もあると思うし、カンパニーと劇場という場合などいろいろパターンがあると思うんですけども。

劇場との契約の時は書面で交わします。戯曲を原作に使ってるときなどは、もちろん用意されてるので、著作権を管理している方と契約は取り交わしますね。ただ、私が主催で創作する時には、スタッフや出演者と契約書を取り交わすということは行っていません。ごめんなさい。

ー契約を書面にしなくても、気にしていることなどはありますか?

最近は私がダンサー等にオファーする段階では、できるだけ出演料とスケジュール、拘束日程などは先に提示するようにしています。口だけで言っちゃうと自分も相手も忘れちゃうから、残るようにメールでですね。

ーあんまり「契約書」と強く言っても、お互いに大変なところもありますよね。

企画がスタートした時点では、金額が確定できないっていうのもありますよね。そういう余白もある上で契約書はあった方がいいんだろうなと思います。

どうサバイブをしてきたのか?「KIKIKIKIKIKI」についても

ーきたまりさんがどんなふうにサバイブしながら仕事をして来たのか教えていただけますか?

でも、私のやり方は古いと思いますよ。私はずっと京都という地方都市でやってきました。だから、とにかくまず、首都圏の賞レースで結果を出していこうというのがありました。助成金を取るための最初の通行手形を手に入れるようなものです。いろんな人に見てもらうっていうところから始まっていました。

ーなるほど。

普段は京都に審査員は見に来ないから、東京に行ってコンペティションに出て、助成金が取れるようになって、キャリアを積んでいくと、劇場から「創作をしませんか」と声がかかるようになりました。そこに入り込むには、まず賞レースに入り込むしかないと思っていた世代だったんです。今はそんなやり方じゃないかもしれませんね。

ー今は賞レースにこだわっている人は、確かに少ないかもしれませんね。

私はそういう意味で、最後の世代です。当時は、ダンスショーケースなどがたくさんあったし、次世代の振付家を育てたいという状況にのっかってきたから、20代は活動の場に困らずに乗り切れたって感じですよね。大学在学中から公募でJCDNの「踊りに行くぜ!!」に選考されたり、そのあとも関西の劇場やフェスで共同制作や上演機会をもらうことが多かったです。それでキャリアを積んだ感じはありますね。

※、「JCDN(NPO 法人 Japan Contemporary Dance Network)」=より豊かな社会を創り出すために、日本全国においてダンスを普及すること、社会とダンスの接点を作ること、ダンスのアーティスト をサポートすること、を目的とする団体。

ー僕は、2008年に「KIKIKIKIKIKI」を札幌で観ました。それまでダンスに興味はなかったんですが、これがとても面白くって。カンパニーはどうやってデザインされたのかお話しを聞けますか?

※「KIKIKIKIKIKI」=2003年結成。以後、振付家/きたまりの創作の場として京都を拠点に国内外で多くの作品の上演を行うダンスカンパニー。2008年『踊りに行くぜ!! vol.9 in SAPPORO』にて上演。

20代のときっていうのは、もう何の計算もしておりませんよね。なんのデザインもないんですよ。「KIKIKIKIKIKIKI」は学生時代に作ったので。二十歳ですよ。二十歳なんてポヨポヨしていて、やる気しかないみたいな感じでした。別に長く続ける気もなかったんですけど、コンペのことがあったりで、ちょっとカンパニーを続けようかなと。20代はいろいろ悩む時期でした。

ー「KIKIKIKIKIKI」がスタートした経緯を教えてください。

きたまり/KIKIKIKIKIKI『老花夜想(ノクターン)』(2021)photo by Yoshikazu Inoue

最初の動機は私からなんですけど、大学に劇場があるから使わなきゃ!作品を作らなきゃ!みたいな動機でした。カンパニー自体は大学卒業したら、いつでもやめようっていう気持ちではいたんですけど、カンパ二ーに依頼が来たり、学生時代に作った作品がベースになってるものがコンペティションに残ったりしたので、そういう理由で続けていったという感じでした。ちゃんとカンパニーメンバーを固定でやろうとしたのが2008年か2009年ぐらいですかね。やっぱり大学卒業して2,3年は悩みながら泳いでいました(笑)。出演するダンサーは大学の同級生や後輩ではあったんですが、別にみんなダンサーになりたいわけではないので、いろいろと入れ替わったりとかしながら、2009年ぐらいにちょっと落ち着いた感じですかね。そこから3、4年は劇場と共同制作とかがあったので、カンパニーとして活動していました。

ーそうだったんですね。

その後、2013年から2015年の間は私がカンパニーを休んだんですよね。その後、2016年からアトリエ劇研という劇場からアソシエイトアーティストの話がはいって、また活動を始めました。ただ、そのときが一番金銭的に厳しいときでした。なぜなら、カンパニーを休んでたその時期、私は何してたかというと、自分の作品を作るんじゃなくて、「Dance Fanfare Kyoto」っていう他のアーティストが作品を作る場をディレクションしてたんですよ。でも、そういうディレクションをアーティストがやっても全く評価されないし、活動として認識されない。私自身が作品を作っていないからです。だから「Dance Fanfare Kyoto」を終えて2,3年、全く自身の創作の助成金が取れない時期がきちゃって。そのときが金銭的にしんどかったかな。アソシエイトアーティストに、劇場は広報協力と劇場使用費を安くするっていうような形で協力をしてくれたんだけど、制作予算は全部こっちで確保しなければなりませんでした。一番大変な時期でした。

※「アトリエ劇研」=京都市左京区にかつて存在した、京都の小劇場を支える中心的小劇場。2017年8月31日をもって閉館。

※「DanceFanfareKyoto」=作品のクリエイションを通じて、関西のダンスシーンの活性化と舞台芸術における身体の可能性の探究をめざす実験の場。「We dance 京都 2012」を契機に、発起人のきたまりを中心とした有志の実行委員会が発足、2013年7月にvol.01、2014年6月にvol.02、2015年5月にvol.03を開催。これまで、総勢100名以上のアーティストがジャンル・バックグラウンド・世代の境界を越えて参加。

ー自分で制作面をすべてこなさなければならないですもんね。

制作は、公演の際は外注もしました。けど、予算がないので、細々としたことはカンパニーメンバーに分担して活動してました。ただ、その状況は私もカンパニーメンバーにも負担ばっかりかけていく感じがするし、創作することが目的なのに、カンパニーを維持することが目的になる感じもして、アトリエ劇研のアソシエイトアーティストの活動を終えた後にカンパニーメンバーを全員放出して、「KIKIKIKIKIKI」をソロユニットという形にしました。

ーユニットになったのはいつからですか?

2018年ですね。結局、人が入ったり出たりとかはあったんですけど、15年間カンパニーという形で「KIKIKIKIKIKI」として活動しました。固定メンバーとも7年位やりました。ほぼ最初からずっとやっている人もいるわけです。

ー結構長くやってたんですね。

はじめは、みんな大学の同級生で、後から大学の後輩や、他で出会ったダンサーにも声かけたりもあったけど長くやってましたね。

きたまりさんが考える「働く」ことの意味

ーHAUSは労働と創作というテーマでインタビューを続けてきました。きたまりさんにとって、「働く」とはどういうことですか?

その質問は難しいですね。10代の時、見に行ったダンス公演の後のアフタートークで、「あなたにとってダンスって何ですか?」という質問に対して、東京から来た著名な振付家が「仕事です」って答えた時にすっごいショックを受けたのよ。

ーなるほど。

そのことが今もどっかにあって、私は「仕事」とはよう言わんのですよ。創作してることが「仕事」ではあるんですけどね、もちろん。だけどそう言っちゃうと、何かが自分の中で崩壊するような気がして。代わりに言えることが、ちょっとまだ見つからない感じがするんです。

ーわかります。

例えば、私は、ダンス創作を人に教えることに気が引けるんです。なぜならば、やっぱりどこかで「教わるもんじゃねぇよ」ってことがあるんだと思います。だから、いつもワークショップなんかでファシリテーター的なことはするんですけど、「これをやって」と見本を見せることはほとんどしないんです。そうしたやり方だと、私が思っていたことと全然違うことが起きることがあります。そういう時に、ワークショップやっててよかったって思いますね。そういう時は、私が何かをしたわけじゃなく、受け手側が能動的にやってくれたっていうことだと思うんです。そんなとき、「いい仕事」したなと思うわけですよ。

ー「仕事」という日本の言葉を使ったときに、既に言葉の大半を「お金を稼ぐ」という意味が占めている気がします。しかし、「仕事」という言葉の中には、「創作」や「社会的活動」という意味もあるはずなんです。HAUSでは、「仕事」という言葉の使い方自体もアップデートしていきたいという壮大な思いはあるんですけれど。

私も最近までは助成金は自分で申請していたし、予算組みなども全部やっていたから、創作活動自体の現実を知りすぎて「仕事」ということに対して何の夢も持ってないわけですよ。だけど、アーティストの「仕事」が「金を稼ぐこと」だけになることは、拒否したいという気持ちはありますね。こういうのは面倒くさいなと思うんですけどね。

ー創作における仁義ですかね。

そうですね。仁義ですね、これ。私自身、アーティストというものに、今でも夢を持ってるのかもしれない。

ー一周回って「仕事」だと言いたくなっちゃう人ももちろんいると思います。

そうそう。あと、「仕事」だって言い切れる現場と、言い切れない現場もあるなと感じます。自分が組んだ企画と、他の人にオファーされた企画では少し違うなと思います。オファーされた企画は、どういうことをして欲しくて呼ばれてるかということに、答えようという気持ちが強くなります。最低限これは突破して、あとは自由にさせてもらう、みたいなこともあるし。それに対して、自分が主催する企画は、どんどん貪欲にわがままになってて。やりたいこと、作りたいものを作るぞっていう気持ちを貫き通す形になっているんですよね、実は。この間、20年ぐらい一緒にずっとやってる舞台監督に「どんどん作品作りに、観客へのホスピタリティがなくなってるね」って言われました。でも、それは若干嬉しかったんですよ。

ー最高の賛辞ですね。

自分が本当にやりたいことが、ここ最近ようやくできるようになってきました。ずっとやりたいことはやっているんだけど、若いときは、誘ってくれる人がみんな自分と年の離れたプロデューサーで、皆、期待をかけて誘ってくれるから、期待に答えようとしすぎた部分もあって。

ーそれは、プレッシャーですね。

当時はプレッシャーでしたね。でも今は、「この企画はこういう企画ですよね」って、こっちもオファーしてくれる相手のことが理解できます。最低限「私はこれはできる」みたいな範疇もわかっています。最近は地域との仕事が多いので、地域の人の中にどういうふうに入っていくかみたいなことも考えるし、そのコミュニティに、ちゃんとリスペクトを持って関わるっていうことは前提にあるとして、「そこから先の作品作りは私に任せてくれ」っていう感じなんです。

ーそういう段階では「仕事」って感じもしますよね。

ワークショップもそうですよね。その劇場のコンセプトや、希望されている何かがあるわけです。寄り道をする時もありますけど、そういうことをちゃんと踏まえながらワークショップをします。そういうときは「仕事」の感じがしますね。けど、「仕事」の先に「創作」がある感じはしますね。

ー「仕事」と「創作」は地続きで繋がってるってことでしょうかね。

やっぱり、「仕事」だけで終わっちゃうことも時々あるわけですよ。場をうまく回せなかったなっていう時は、ちょっと「仕事未遂かな?」みたいなことはありますよね。

ー僕は数学教員なんです。ですから、教育現場でも同じようなことありますから、このお話に共感します。子供の発育に対して大切なことは伝えたい。でも、まずは教科書は最低限教えなきゃいけないしみたいなジレンマはあります、最低限のことを伝えたその先に、やりたいことがあるみたいなことは考えます。

予想できることは「仕事」って感じなのかも知れないですね。その先にあるのが「創作」かも。

ーなるほど。それはわかりやすい表現ですね。今日は貴重な話が聞けました。ありがとうございます。

編集後記

最近、たくさんの人たちへインタビューする機会が増えたのですが、文字起こしや編集をしながら気がついたことがあります。それは、インタビューの時の言葉(音声)と、おこした言葉(テキスト)の雰囲気には大きな差があると言うこと。

きたまりさんのお話しは、音声で聞いている時はとても緩やかで優しい印象を受けましたが、テキストにしてみると、とても力強く、重みを感じます。彼女が纏う不思議な雰囲気の源は、そういうところにあるのかもしれません。

複数の拠点で活動する方のお話しを聞いていたら、北海道では今後そういったアーティストが増えていくような気がしました。そんなことを考えていたら、ニューヨークと北海道を行ったり来たりしているピアニストに出会いました。

次回のインタビューはこの方です。

インタビューその5
ジャズピアニスト 野瀬栄進さん

(アップされるまで、もう少しお待ちください)

今回インタビューされた人 きたまりさん
17歳より舞踏家・由良部正美の元で踊り始め、2003年より自身のダンスカンパニーである「KIKIKIKIKIKI」を主宰。2006年京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科卒業。近年はマーラー全交響曲を振付するプロジェクトを開始し、2作目『夜の歌』で文化庁芸術祭新人賞(2016年度)を受賞。また長唄を使用し60分間ソロで見せる木ノ下歌舞伎『娘道成寺』、国指定重要無形文化財・嵯峨大念佛狂言のお囃子との共演『あたご』など、日本の伝統芸能を素材にした創作や、『We dance京都2012』『Dance Fanfare Kyoto』プログラムディレクターなど、ジャンルを越境した多岐にわたる活動を展開している。

きたまりさんのアーティストツリー

今回インタビューした人 渡辺たけし
1971年小樽生まれ。公立中学校数学教員。劇作家、演出家。いろいろな地域の人々を取材し演劇作品などにしている。HAUSでは、アーティストの労働条件や人権について担当。

今回インタビューした人 奥村圭二郎
2005年〜2014年まで関わった取手アートプロジェクトでは、事務局としてアートプロジェクト全般の運営管理/展覧会・屋外パフォーマンスの企画制作/NPO法人化立ち上げ/資金調達を担当。2015年〜2017年に従事した東京藝術大学美術学部(特任研究員)では、東京都美術館と東京藝術大学の連携事業「とびらプロジェクト」のコーディネーターとして、アクセシビリティ/芸術と社会課題/ワークショップメイキング等に関する講座運営を一般から募ったアート・コミュニケータ(通称:とびラー)を対象に実施した。2018年からはフリーランスとして、東京都内で開催されている芸術文化事業のマネジメントに携わっている。